松久朋琳・宗琳の遺志を継いで
多様な仏像制作をしています。
昭和三七年(1962)、松久朋琳と宗琳により、「京都仏像彫刻研究所」として発足し、
仏像彫刻、仏画、截金、それぞれの分野での後継者の育成と、
集団による多様な仏像制作を目指してきました。
この工房において造立された仏像は、全国各地の寺院に納まり、礼拝されています。
また、100名を越える弟子たちが、ここでの修業を基盤として、
仏師、仏絵師、截金師として、それぞれの道を歩んでいます。
平成四年(1992)、宗琳の没後に「松久宗琳佛所」と改称し、
現在は、松久佳遊(宗琳の次女、仏師・仏絵師)を所長として、
松久真や(宗琳の長女、截金師)をはじめ十数名の弟子が修業し、朋琳・宗琳の遺志を継いでいます。
一彫一礼の心で
松久宗琳佛所は、豊富な経験と資料のもと、
熟練した仏師・彩色截金師・仏絵師たちが日夜「仏つくり」に励んでいます。
互いの技術を生かしあい、仏さまや肖像の造像や修復、頂相や仏画、
截金彩色を施した工芸品などの制作を手がけております。
天平の時代の仏さまがこの世に遺されているように、
現代の仏さまが遠き未来の世に遺され、受け継がれていくことを念頭に置き、
いま私達ができる最高の技で仏つくりをしています。
松久宗琳佛所は、先の「理念」を心に置き、皆様のご要望にあわせて、
仏像や肖像などの制作を承ります。
綿密なる打ち合わせをご納得されるまで精査し、
素晴らしい仏像や肖像を制作させていただきます。
まずは、当方までお気軽にご連絡ください。
感動即菩堤
四代目 市川猿之助
松久宗琳仏所発行書籍『仏の美』より
古くから人々は樹に宿る聖霊というものを信じていた。
縄文土器に見られる不思議な縄目模様。
恐らく、木の霊力を土器に封じ込めようとしたものであろう。
また、佛師は樹木の内に、既に在る。ギリシャやローマ、或いは中国の建築物のほとんどが石造りであるのに対して、法隆寺は世界最古のの木造建築物である。
百済からもたらされた金銅佛も、その後、決して主座を占めるには至らなかった。
日本人は永遠の堅牢さよりも、うたかたの儚さを求めたのだ。
そもそも、釈尊が説いた四諦八正道や縁起の法などの真理は、われわれのような凡夫には、
深遠なるがゆえになかなか近づき難しいものがある。
それでもひと昔前までは、家庭の何気ない日常生活の中にちゃんと佛教が息づいていた。
食前の「いただきます」も、感謝の「ありがとうございます」も立派な御佛の教えである。
昨今は、情操が養われるべき家庭という場が失われつつあると共に、佛教においても信仰の側面が希薄になってきているように見受けられる。 寺院は半ば観光地と化し、佛像は鑑賞作品となっている。
現に有名寺院の展覧会ともなれば、どこもかしこも見物客が長蛇の列をなす。
果たして、佛像は単なる彫刻でしかないのか。いや、そうではあるまい。
なによりもまず信仰の対象として、対峙する者に畏敬の念を起こさせる崇高なものでなくてはならない。素晴らしい佛像と出会った時、思わず手を合わせていることがある。
では、その手を合わせさしめるものとは一体、何なのであろう。慈悲を求める心なのか。
それとも、畏怖の念なのか。私は感動だと思う。
感動が手を合わせる。合掌とは言葉を失う程のとてつもない感動を表現した形なのではないか。
人は感動して涙した時、初めて素直な心は人類の一縷の望みである。
釈尊は偶像崇拝を戒めたとされているが、これこそ凡夫が救われる道ではないのか。
この度、比叡山無動谷の辯才天のお導きにより、念持佛を彫っていただくご縁を頂戴した。
元より私は松久朋琳・宗琳のお二方を存じ上げない。
しかしながら、彫り上げられた気品溢れる像容を通して、お会いしたことのない両師の息遣いというものを強く感じるのである。
成る程、この気品は松久宗琳佛所が生み出す御佛たちの最大の魅力であり、その伝統が脈々と受け継がれていることは、本書をご覧いただければ一目瞭然であろう。
(中略)
佛師とは正にこの両者を同時に体現する、まことに稀有な存在といわねばなるまい。
これからもこの佛所から多くの佛像が世に生まれ、われわれ迷える衆生に感動の光明が与えられんことを切に願うものである。
市川 猿之助
(いちかわ えんのすけ)
歌舞伎役者
慶應義塾大学文学部国文科卒業
平成二十四年(二〇一二)に「二代目猿翁 四代目猿之助 九代目中車襲名披露公演」において
四代目・市川猿之助を襲名
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