History of Matsuhisa Sohrin
松久宗琳佛所の歴史

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主な顔ぶれ

松久 朋琳 Matsuhisa Hourin

(1901~1987)

四天王寺大仏師
身延山久遠寺大仏師
比叡山延暦寺大仏師・法橋

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黙々と彫る

松久朋琳は、明治三四年(1901)に京都で生まれました。10歳より仏像彫刻をはじめ、昭和六二年(1987)に他界するまで、およそ70年余りの間、仏像を彫り続けました。その間に彫った仏さまの数は、5000体とも8000体ともいわれますが、朋琳自身の口からは、「何体彫ったか覚えてないし、そういうことはどうでもよいこと」という、言葉しか聞かれませんでした。

仏像への心

朋琳が何よりも大切にしたことは、「仏像への心」でした。「たとえ稚拙であっても、野の石仏を目にすると、思わず掌が合わさる。それは、彫った人が祈りの心を込めて彫っておられるから。その祈りの心こそ、仏さまを彫る人間のもっとも根本とすべき心構え。」一貫して、朋琳は、その心を弟子や宗教芸術院の人々に説いていました。

一人一仏運動

朋琳の提唱したものに「一人一仏」の運動があります。すべての人の心の内には、仏さまがおられる。その仏さまを自らの手で彫り、形としてお迎えする。そして、お迎えすることによって、その人の心に仏の姿を宿す。そういう「一人一仏」の願いを根底において、仏像彫刻の手ほどきをしていたのです。

朋琳の心

朋琳の工房での日常は、食事時以外はほとんど小刀を手放すことがなく、天衣無縫の人柄同様、その刀さばきも自由闊達でした。ある弟子は、「朋琳先生の仏像は、どの部分を見てもいきている。」と賛嘆したほどです。「小手先の技術だけでは、拝める仏さんは出てきてくれません。上手、下手やない。仏さんをお迎えしたいという思い、これがいちばん大事なこと」という朋琳を慕って、工房には毎日、多くの方が訪ねて来られました。また、全国各地から舞い込む講演の依頼にも、実に気軽に足を運ばせ、晩年は多忙を極めましたが、朋琳当人はそれを「けっこうなこと、ありがたいこと」と、愉し気に受けていました。その忙しさは、朋琳にとって、宗琳とともに播いてきた仏像彫刻の種が花をつけ、実を結んだ証であると感じていたのかもしれません。

松久 宗琳 Matsuhisa Sourin

(1926~1992)

四天王寺大仏師
成田山新勝寺大仏師

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仏像彫刻を愛して

松久宗琳にとって仏像を彫るという行為は、仕事ではなく、日常の暮らしそのものであり、仏に魅入られた人のように彫っていました。「私ほど仏像彫刻を愛している人間はいない---」そう自負していた宗琳は、仏像の世界を愛しただけではなく、その世界にやって来た人々をも、ともに仏さま造りを愉しむ仲間として大切にし、育てました。それは、プロの仏師として修業する弟子に対しても、一般の愛好者に対しても、わけ隔てなく指導し、仏像彫刻の醍醐味を公のものとしたからです。古来の仏像から学び得た技を、人々に惜しまず伝えることが自らの使命、と感じていたかのようでした。

明星観音像

「京仏師」という呼び名に誇りを抱いていた宗琳は、その名の通り、優雅で精妙な仏像を数多く残しましたが、中でも、観音さまを好んで彫りました。松久宗琳佛所のご本尊であり、弟子一同の支柱となっている明星観音像は、昭和48年(1973)に、宗琳が全身全霊を打ち込んで制作した代表作といえます。 仏師修業を始めて2ケ月後に彫った観音像が、当時のお金で5円で売れて以来、観音さまは、仏師としての日々を支えると同時に、宗琳の仏像世界の核となったのです。

技との対話

宗琳は、その時々に、自身の純粋な創作意欲にかられて彫った仏像を、すべて手元に置いていました。それは、誰もが、いつでも、自分の作品を見られるように、そして、そこから得るべきところがあれば、いくらでも吸収してくれればよいという意志があったのだと思われます。その想いは、現在も生きており、宗琳の造った仏さまは、仏像彫刻を志す人々と対話し、手本となっているのです。

松久 佳遊

松久 佳遊 Matsuhisa Kayu

松久仏像彫刻会館 館長
松久宗琳佛所 所長
宗教芸術院 院長

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宗琳の刀を受け継ぐ

松久宗琳の二女として京都に生まれました。日吉が丘高校美術コース日本画科、京都芸術短期大学で日本画を学んだのち、宗琳の主催する京都仏像彫刻研究所(現・松久宗琳佛所)のもとで、仏絵師としての道を歩み始めました。

仏をみつめる

数年後、自身のイメージする仏の姿をより的確に表現するため、水墨画(京画)上田家聖師に師事し、水墨画の筆法も学び得ました。「伝統的な水墨画と、学生時代に学んだ現代の日本画の技法とが、私のなかでひとつに溶け合ってくれたのでしょうか。胸に浮かんでいながら、どうしても現れてくださらなかった仏さまにやっと出会えたのです。」と自身の著書の中で語る松久佳遊は、従来の寺院に祀られることのみを目的とした仏像ではなく、身近に置いて親しめる、自由な発想から生まれた仏画を数多く描いています。 平成四年、宗琳の没後、松久宗琳佛所および宗教芸術院の代表に就くと同時に、宗琳の遺した刀を持ち、仏像彫刻を始めました。

自由な発想

当初は、松久宗琳佛所の、仏師としては先輩にあたる所員の助言を得ながらも、年に1作のペースで彫像していましたが、近年は、仏画で培った造形感覚を生かし、仏画同様、独自の作風の仏像を制作しています。

松久 真や

松久 真や Matsuhisa Maya

松宗院截金 代表

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截金との出会い

松久宗琳の長女として京都に生まれました。高校卒業後はデザイナーを志し、インターナショナルデザイン研究所において、商業デザインを初めとする様々な分野のデザインを学びました。その後、父である宗琳の進言を受け、古来より伝わる截金の道に入りました。もともと截金は、男性のみ携わる世界でしたが、宗琳のもとで仕事をしていた截金師から手ほどきを受け、基礎的な手法を習得し、歴史上初の女性截金師となりました。 しかしその間、截金の世界の「技法の非公開」という閉鎖的な体質に疑問を感じ、その将来性に危惧を感じました。

截金を身近に

昭和五四年、「截金の技法」を著し、世に始めてその技法を紹介いたしました。同時期、より広く一般の人々に截金の技を伝達することを願い、宗教芸術院において「截金教室」を開講しました。その教室からは、一般の愛好者はもちろんのこと、プロの截金師として活躍中の人々が多く育ち、巣立って行きました。「截金に関して自分の知っている限りのことは、すべて伝え教える」という松久真やの指導姿勢を慕って、今も多くの人が截金教室に通い、技を学んでいます。

創作と教授

「截金は、仏像、仏画に施すことが本来のかたち」という考えを根底に置きながらも、截金の可能性をさまざまな対象に試し、現在は女性截金師の先駆者として、「創作と教授」の道を、自身のペースで歩んでいます。